静寂の中の切実なSOS
「藤川さん、助けてください。主人の想いを、どうしても形にしたいんです。でも、私たちの力だけでは、もう……」
受話器の向こうから聞こえてくるのは、かすかに震える女性の声。東京都台東区にお住まいの五十嵐智也さんの奥様でした。これまで私は、数多くの「亡くなった後の相続手続き」に携わってきました。もつれた糸を解きほぐし、家族の絆を修復する仕事に誇りを持っています。しかし、今回のご依頼は、それらとは全く異なる、極めて重く、そして一刻を争う「生前の決断」でした。
「主人はALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っています。今はもう、寝たきりで言葉を発することも、指一本動かすこともできません。でも、意識は驚くほどはっきりしていて、私に遺しておきたい言葉があると言うのです」
翌日、私は台東区にあるご自宅へと向かいました。下町の活気ある喧騒を離れ、智也さんの自宅に一歩足を踏み入れると、そこには微かな消毒液の匂いと、静かに時を刻む医療機器の電子音が響く、別世界のような静寂がありました。寝室に通されると、そこには多くの管に繋がれながら、静かに横たわる智也さん(64歳)の姿がありました。
透明文字盤越しの魂の対話
ALSは、意識や知能ははっきりしたまま、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく残酷な病気です。智也さんも、私が部屋に入ると、力強い眼差しでこちらをじっと見つめました。その目には、明らかな「意志」が宿っていました。
「主人の言葉を通訳しますね」
傍らにいた訪問看護師さんが、一枚の『透明文字盤』を取り出しました。五十音の文字が書かれた透明なアクリル板です。看護師さんが文字盤を智也さんの目の前に掲げ、智也さんの視線の動きを追いながら、一文字ずつ丹念に読み上げていきます。
「ふ……じ……か……わ……さ……ん……」
「よ……ろ……し……く……お……ね……が……い……し……ま……す……」
その一文字を紡ぐのに、どれほどのエネルギーを要するのか、私には想像もつきませんでした。まばたき一つ、視線の移動一つが、彼にとっては全身全霊をかけた表現なのです。しかし、彼は確かに私に語りかけていました。
智也さんご夫婦にはお子さんがいません。現在、彼を24時間体制で献身的に介護しているのは、フィリピン出身の奥様です。異国の地で、言葉や文化の壁を乗り越え、病と闘う夫を支え続ける彼女の苦労は計り知れません。
法律上、もし遺言がなければ、智也さんの財産の一部は、長年疎遠にしているお母様や、決して関係が良いとは言えないお姉様へと流れていくことになります。智也さんは、自分の死後、奥様が慣れない日本の法律や、疎遠な親族との遺産分割協議に翻弄され、この住み慣れた家を追われるような事態だけは、何としても避けたいと考えていました。
「すべての財産を、妻に」
それが、透明文字盤を通じて私に伝えられた、智也さんの切なる、そして唯一の願いでした。
法的な「口授」の壁と専門家の使命
「わかりました。その想い、必ず形にしましょう」
私は智也さんの瞳を見つめ、力強く頷きました。しかし、実務上、ここには非常に高いハードルがありました。通常、本人が自筆で書けない場合、公証人が作成する「公正証書遺言」を選択しますが、そこには民法上の「口授(くじゅ)」という要件があるからです。口授とは、遺言者が遺言の内容を公証人に口頭で伝えること。しかし、智也さんは言葉を発することができません。さらに、指を動かしてサインすることもできません。一見すると、法律の壁が智也さんの願いを阻んでいるようにも見えました。
しかし、私はあきらめませんでした。意思能力がこれほどはっきりしている以上、その意思を法的に有効な形に定着させる方法が必ずあるはずだ。それが司法書士としての私の信念でした。
私はすぐに、日頃から信頼を置いている公証役場へ連絡を入れました。智也さんの病状、透明文字盤による意思疎通の確実性、そして何より「奥様を守りたい」という智也さんの執念を、ありのままに伝えました。
公証人の先生は、私の訴えを静かに、しかし真剣に受け止めてくださいました。「藤川さん。我々公証人の役割は、単に形式を整えることではありません。身体的な理由で声を失ったとしても、その方の真実の意思が確認できる手段があるならば、それを『口授』に準ずるものとして扱うべきです。それが法的な権利を確保するということです」公証人の先生は、自ら自宅を訪問し、智也さんの意思能力とコミュニケーション方法を確認することを快諾してくださいました。