遺産相続物語

STORY

[多数の相続人]

第19回 60年間名義変更しなかった不動産の結末――相続登記の放置が招いた「40名の壁」と、裁判を使った劇的解決(前編)

  • 投稿:2026年07月05日
第19回 60年間名義変更しなかった不動産の結末――相続登記の放置が招いた「40名の壁」と、裁判を使った劇的解決(前編)

第一章:受け継がれてきたアパートと、置き去りにされた「名義」

「藤川先生、父から引き継いで長年管理してきたアパートを、いよいよ売却しようと考えているんです。ただ……その、売るためにはまず、私の名義に変えなきゃいけないんですよね?」

私の事務所の応接室で、少し気まずそうな、それでいてどこか不安げな表情を浮かべていたのは、東京都練馬区在住の田村敦子さん(63歳)でした。

敦子さんのお父様は、今から30年以上前の平成3年に亡くなられています。それ以来、敦子さんはお父様の後を継ぐ形で、練馬区内にある木造アパートの管理を一人で一手に引き受けてこられました。毎月の家賃収入の管理はもちろん、建物の修繕の手配、そして毎年春に届く固定資産税の納税通知書も、すべて敦子さんが自身の名義で支払い続けてきたのです。

長年、地域に根ざして経営してきたアパートでしたが、建物もいよいよ老朽化が進み、敦子さん自身も年齢を重ねて今後の管理が難しくなってきたことから、今回、信頼できる不動業者を介して売却する話が持ち上がったのだと言います。

「ええ、不動産を売却するためには、現在の持ち主である敦子さんの名義に登記を変更する必要があります。お父様が亡くなられた時の遺産分割協議書などは残っていますか?」

私が尋ねると、敦子さんはバッグから古びた権利書と、1通の登記簿謄本(全部事項証明書)を取り出し、申し訳なさそうに机の上に広げました。

「それが……父が亡くなった時も、名義のことは何もしていなくて。それどころか、この謄本を見ていただけますか。私、以前から知ってはいたんです。このアパートの名義、父のものでさえなくて、昭和36年に亡くなった私の祖母の『前のお連れ合い(前夫)』のままになっているんです」

差し出された登記簿の「所有者」の欄に目を落とすと、そこには明治34年生まれである田村清治さんというお名前が、重々しく刻まれていました。昭和36年に亡くなられてから、じつに60年以上もの間、一度も名義が変更されることなく、そのまま放置されていたのです。

「父の代でも家賃をもらえていたし、税金も私がずっと払ってきたから、手続きをしなくても特に困ることはなかったんです。でも、いざ売るとなると、さすがにこのままじゃダメですよね……?」

敦子さんは消え入るような声で言いました。「お気持ちはよく分かります」と私は深く頷きました。「日本では長年、相続登記をしていなくても罰則がなかったため、敦子さんのように『困っていないから』と何十年も放置されてしまうケースが本当に多いんです。しかし、名義が清治さんのままでは、不動産を売却することはできません」。

2024年4月から「相続登記の義務化」がスタートし、放置には過料というペナルティも科される時代になりましたが、まさにこの「放置」が、実務においてどれほど恐ろしい事態を引き起こすか、プロとしてその全貌を解き明かすための調査に着手したのです。

第二章:戸籍の波に溺れる――数次相続がもたらした「40名」の衝撃

「相続登記を長期間放置すると、ねずみ算式に相続人が増えていく」

これは私たち司法書士が口を酸っぱくして言う言葉ですが、今回の戸籍を調べていくプロセスは、まさにその言葉の恐ろしさを証明するようなものでした。

登記名義人である清治さんが亡くなられたのは昭和36年のこと。当時の戸籍を読み解いていくと、まず非常に複雑な家族の背景が浮かび上がってきました。清治さんと敦子さんの祖母との間には、子供がいませんでした。そのため、昭和36年の清治さん死亡時における法律上の相続人は、「祖母」と「清治さんの兄弟姉妹6名」の合計7名だったのです。

では、なぜ敦子さんのお父様がこのアパートを引き継いでいたのか。 実は敦子さんのお父様は、祖母がその後「再婚」した新しい夫の連れ子(前妻との子)だったのです。祖母はそのお父様をとても可愛がり、養子縁組をして我が子として迎え入れていました。だからこそ、祖母が亡くなった後、お父様がアパートの管理を引き継ぎ、さらにそれが娘の敦子さんへと託されてきたという歴史があったのです。

もしも、昭和36年の清治さんが亡くなった当時にすぐ登記をしていれば、祖母と兄弟姉妹6人の「合計7名」の話し合い(遺産分割協議)だけで、すんなりと名義変更は終わっていたはずでした。しかし、昭和、平成、令和と時代の針が進む中で、その7名もすでに全員が他界されていました。相続人が亡くなり、次の相続人が亡くなり、さらにその次の世代へと権利が引き継がれていく――これを法律用語で「数次相続」と呼びます。

全国各地の役所から何十通もの戸籍謄本を取り寄せ、私はオフィスのデスクいっぱいに家系図を広げました。線を繋ぎ、現在の生存者を割り出していく作業を数週間続けた結果、私のペンがピタリと止まりました。

「……40名」

思わず声が漏れました。当時はたった7名だったはずの相続人が、60年の歳月を経て、現在では日本全国に散らばる総勢40名にまで膨れ上がっていたのです。そのほとんどが、敦子さんにとって顔も見たことがなければ、名前すら聞いたこともない「清治さんの親族(見知らぬ遠戚)」ばかりでした。

後日、事務所に敦子さんをお呼びし、完成した巨大な家系図をお見せしました。 40名もの名前がズラリと並ぶ図面を見た瞬間、敦子さんは顔を真っ青にされ、絶句してしまいました。

「40人……!? 先生、嘘でしょう……。アパートを売るためには、この40人全員を探し出して、全員に実印を押してもらわなきゃいけないんですか?」

「法律上の王道(遺産分割協議)でいくなら、そうなります」と私は静かに答えました。「40人全員の自宅に手紙を送り、趣旨を説明し、全員から実印と印鑑証明書を集める。もし1人でも『面識のない人間のために協力したくない』と拒否されたり、あるいは認知症などで意思能力がない方が1人でも混ざっていれば、その時点でこの話し合いは頓挫します」。

「そんな……。じゃあ、もうあのアパートは売れないし、私の名義にもできない、一生そのままってことですか? 父が大切に守ってきた場所なのに、どうして……」 敦子さんの目から、不安の涙がこぼれ落ちそうになっていました。

「諦める必要はありません、敦子さん」 私は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、力強く言い放ちました。「41人全員と話し合うのが現実的でないのなら、別の『法律の力』を使って、正面突破する方法があります。司法書士として、この絡まり合った糸を解きほぐす“究極の手続き”をはじめましょう」。

中編に続く

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