遺産相続物語

STORY

[遺言]

第15回 母が遺した最後の灯火――障がいのある息子の未来を守った遺言による信託(後編)

  • 投稿:2026年05月30日
第15回 母が遺した最後の灯火――障がいのある息子の未来を守った遺言による信託(後編)

前編からの続き

信託銀行の高い壁と、母からの切実な懇願

私がセツさんに提案したのは、信託銀行の『遺言による信託(遺言信託商品)』の活用でした。セツさんが遺言書の中で「自分の死後、財産を信託銀行に信託する」と指定し、信託銀行を「受託者」にするという方法です。

これならば、セツさんが亡くなった後は信託銀行が1億円を厳重に管理し、真一さんが生きている間は、毎月の生活費や施設の費用をそこから確実に支払い続けます。真一さんが亡くなった時点で信託は終了し、残った財産はセツさんの希望通り、お世話になった障がい者施設へダイレクトに寄付される仕組みを作ることができます。腹違いの妹に財産が流れる隙は、どこにもありません。

しかし、この方法には信託銀行側から突きつけられた、非常に高いハードルが存在しました。

「藤川先生、仕組みとしては組成可能です。しかし、真一さんには金銭管理の判断能力がありません。銀行が財産を管理・給付するにあたり、毎月の施設費の請求や、真一さんに今いくら必要なのかを現場で判断し、我々に給付の請求を出す『指図人(さしずにん)』がどうしても不可欠です。どなたか身内で、指図人を引き受けてくださる方はいらっしゃいませんか?」

銀行の担当者の言葉に、室内の空気が凍りつきました。セツさんには、頼れる親族など一人もいないのです。指図人がいなければ、この高度な信託契約はただの絵に描いた餅になってしまう――。

そのときでした。セツさんが私の手を両手でぎゅっと握りしめ、目に涙を浮かべながら、絞り出すような声で懇願されたのです。

「藤川先生、勝手なお願いなのは百も承知です……。でも、私の周りには、信頼できる方は先生しかいないのです。どうか、私が逝った後、真一の『指図人』になっていただけないでしょうか。先生にしか、あの子の未来を託せないのです」経営者として修羅場をくぐり抜けてきたはずのセツさんが、一人の母親として、私の前に深く頭を下げていました。その手の震えと、我が子を想うあまりの切実な眼差しを受け止めたとき、私の中で迷いは消えました。

「……わかりました、セツさん。お母様が亡くなった後も、私が真一さんの目となり足となり、その財産を絶対に守り抜きます。私が指図人を引き受けましょう」 私の言葉に、セツさんは張り詰めていた糸が切れたように涙をこぼし、何度も何度も「ありがとうございます」と繰り返されました。

母の想いを叶えるためだけの「成年後見」

しかし、決意した私の前に、さらなる法的な壁が立ちはだかりました。信託銀行側から「指図人として指定する以上、受益者(真一さん)との関係において、客観的かつ公的な立場をお持ちいただかなければ、指図の正当性が担保できません」と告げられたのです。公的な立場。それはつまり、私が法的に真一さんの「代理人」にならなければならないという意味でした。

実は、真一さんが現在の施設で穏やかに生活を送る分には、あえて成年後見人をつける必要はありませんでした。施設との契約もしっかりしており、日々の暮らしに支障はなかったからです。しかし、「財産を妹に渡さず、施設へ寄付する」というセツさんの強い想いを実現するためには、私が真一さんの成年後見人(補助人)となり、法的な後ろ盾を持った『公式な指図人』になるルートを選ぶしかありませんでした。

「本来は必要のない手続きかもしれません。でも、お母様の想いを形にするためには、これが唯一の道です」私はすぐさま、自らを後見人(補助人)候補者として家庭裁判所へ成年後見(補助)の申立てを行いました。裁判所との度重なる面接、医師の診断書の取り寄せ、真一さんが入所する施設への訪問調査。数ヶ月に及ぶ地道な実務の末、裁判所から私を真一さんの「補助人」に選任するという決定通知が届きました。 これにより、すべての条件がクリアされました。パズルの最後のピースが、ついにカチリと嵌まった瞬間でした。

母が遺した「愛の灯火」

秋が深まる頃、信託銀行の応接室にて、セツさんの公正証書遺言の作成が執り行われました。

公証人が読み上げる遺言の内容を、セツさんは一言一言、噛み締めるように聞いていました。

「……真一の生涯にわたり、その生活の安定を図るものとし、同人の死亡をもって本信託を終了とする。残余財産は、これを全額、社会福祉法人ABCに帰属させる。本信託の指図人として、司法書士・藤川健司を指定する――」

セツさんが遺言書にゆっくりと署名し、実印を捺したとき、部屋の中にいた全員が静かな感動に包まれていました。同席した信託銀行の担当者が、感嘆したように私に耳打ちしてきました。

「藤川先生、本当に頭が下がります。実は、うちの銀行のパンフレットには『遺言による信託』という商品ラインナップこそありますが、実際に動いたケースは私自身、見たことがありません。専門知識だけでなく、後見人(補助人)となって指図人を引き受けるという先生の覚悟、そしてお母様の深い愛。この二つが揃わなければ、間違いなく絵に描いた餅で終わっていた事例です。本当に素晴らしいものを見せていただきました」

手続きがすべて完了し、帰路につく際、セツさんは私の手を再びしっかりと握りしめました。

「先生、本当にありがとうございました。これで、今夜から久しぶりにぐっすり眠れそうです。私がいつ逝っても、あの子の周りには先生がいて、あの優しい施設がある。あの子の未来に、温かい灯火を遺してあげることができました。もう、何も思い残すことはありません」

その数年後、セツさんは老衰のため、眠るように息を引き取られました。 彼女が遺した1億円の財産は、現在、信託銀行を通じて、真一さんの日々の穏やかな暮らしを支えるために一円の狂いもなく使われています。私は月に一度、真一さんの施設を訪ね、彼の体調を確認し、銀行へ指図書を送る業務を続けています。施設を訪れるたび、真一さんは言葉にはならなくとも、嬉しそうに私の手を握り返してくれます。その向こうに、いつも笑顔で「あの子を頼みます」と言っていたセツさんの姿が重なるのです。 法律は時に冷たい壁となりますが、専門家の知恵と、当事者の深い愛が組み合わされば、その壁を乗り越え、大切な人の未来を優しく照らす灯火へと変えることができる。それを私に教えてくれた、忘れられない「母と息子の物語」です。

終わり

第15回 母が遺した最後の灯火――障がいのある息子の未来を守った遺言による信託(後編)

お問合せ

CONTACT

ご質問やご相談がございましたら、お気軽にお問合せください。
専門スタッフが丁寧に対応いたします。

対応地域

全国対応(海外含む)

初回相談は
無料です