八十七歳の元経営者が抱く、誰にも言えない焦燥
「藤川先生、私はもう、自分がいつ倒れてもおかしくない年齢です。でも、今死ぬわけにはいかないんです。あの子を遺しては、どうしても逝けないのですよ……」
初夏の爽やかな風が吹き抜ける横浜のカフェで、私の前に座る内田セツさん(87歳)は、背筋を真っ直ぐに伸ばしながらも、絞り出すような声でそう切り出しました。
セツさんはかつて、この横浜の地で長年にわたり会社経営をされてきた方です。男性社会だった時代に自らの腕一本でビジネスを興し、がむしゃらに働いて築き上げた資産は、現預金だけで1億円を超えていました。年齢を感じさせない聡明な眼差しと、凛とした佇まい。しかし、その手元はわずかに震えていました。
セツさんの夫はすでに他界しており、唯一の家族であり、法定相続人となるのは、一人息子の真一さん(60歳)だけでした。
「真一はね、生まれたときから脳性麻痺という重い障がいを抱えているんです。言葉を話すことも、自分で身の回りのことをすることもできません」
セツさんの表情が、母親の優しい、しかしどこか切ないものへと変わります。真一さんは10年前から、横浜市内にある専門の障がい者施設に入所していました。その施設は非常に設備が充実しており、スタッフの教育も行き届いていました。何より、真一さん自身が毎日をとても穏やかに、笑顔で過ごしていることが、セツさんにとって最大の救いでした。
「本当に素晴らしい施設なんです。私が面会に行けない日も、スタッフの方々が我が子のように真一に寄り添ってくれる。あの場所があるから、私は今日まで安心して生きてこられました。だからね、先生。私が死んだら、この1億円の財産はすべて真一のために使ってほしい。そして、真一が天国へ旅立った後は、残ったお金をすべて、あの子を支え続けてくれたあの施設に寄付したいんです。それが、私の最後の『恩返し』です」
それは、一人の母親が人生の終着駅を前にして辿り着いた、あまりにも純粋で、美しい願いでした。しかし、セツさんはすぐに顔を曇らせ、声を潜めました。
「でもね……今のまま私が死んだら、あの子が亡くなったとき、私のお金は『あの人』のところに流れてしまうのでしょう?」
セツさんの言う「あの人」とは、亡き夫が前妻との間に儲けた、真一さんにとって腹違いの妹にあたる女性のことでした。その妹とは、夫の生前から現在に至るまで、完全に音信不通であり、親族としての交流は一切ありませんでした。
「私が一生をかけて、汗水流して築いた財産です。真一のためなら一円だって惜しくない。けれど、あの子の顔も見たことがない、縁もゆかりもない妹に我が家の財産が渡ることだけは、どうしても耐えられないのです。先生、何か方法はありませんか」 セツさんの言葉は、法律が突きつける「冷酷な現実」を正確に捉えていました。
法律が阻む「二段階」の壁
私の頭の中で、すぐさま法律のシミュレーションが始まりました。
「セツさんの唯一の相続人は真一さんなので遺言がなくても財産はすべて真一さんが相続することになる。ただ真一さんは相続手続ができないので、セツさんが『すべての財産を真一に相続させる』という通常の遺言書を書いて執行者を選任した方が手続はスムースにいくな。」
いずれにしても、セツさんが亡くなれば、予定通り1億円は真一さんのものになります。ここまでは問題ありません。
しかし、本当の悲劇はその「次」に起こります。真一さんには重度の障がいがあり、自身の意思で遺言書を作成する「遺言能力」がありません。つまり、真一さんが将来亡くなったとき、その財産を「施設に寄付する」という遺言を遺すことは不可能なのです。
遺言がない場合、財産は法律が定めたルート、すなわち「法定相続人」へと流れます。真一さんには子供もおらず、両親もすでに他界しているため、相続権は「兄弟姉妹」に移ります。ここで、あの腹違いの妹が「唯一の法定相続人」として浮上してくるのです。セツさんがどれほど拒絶しようとも、真一さんが遺言を書けない以上、最終的にはすべての財産がその妹の手に渡ってしまう。これが厳然たるルールの壁でした。
「それなら先生、『家族信託』はどうかしら? 最近よく耳にするわ」 経営者らしい知識を持つセツさんは、私を試すように言いました。確かに家族信託を使えば、「自分が死んだら息子へ、息子が死んだら施設へ」という、財産の行く末を二段階にわたって指定する(後継ぎ遺贈型受益者連続信託)が可能です。しかし、それには致命的なハードルがありました。信託を成立させるには、財産を実際に管理・運用してくれる信頼できる「受託者」が不可欠なのです。セツさんには、他に頼れる親族が一人もいませんでした。
「私が受託者になれれば一番良いのですが、司法書士という資格だけでは、信託の免許がないため個人で業として受託者になることは法律上できないのです」 私は正直に、自らの限界を伝えました。
「じゃあ、やっぱり駄目なのかしら……。私が死んだら、真一の未来も、施設への恩返しも、すべて霧のように消えてしまうの?」セツさんの目から、張り詰めていた光が消えかけようとしていました。私はその手をそっと包み込むように言いました。
「諦めるのはまだ早いです、セツさん。私たちが使えないなら、『プロの組織』を巻き込みましょう。まだ、一つだけ、お母さんの願いを完璧に叶えられる『ウルトラC』の方法が残されています」 私はセツさんの目を見つめ、一つの特殊な手続きの提案を始めました。