遺産相続物語

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第16回 二十年目の「けじめ」――行方不明の長男に下した失踪宣告と、母の決断(前編)

  • 投稿:2026年06月06日
第16回 二十年目の「けじめ」――行方不明の長男に下した失踪宣告と、母の決断(前編)

止まった時計と、突きつけられた「名義」の壁

「藤川先生、あの子が家を出てから、もう二十年以上が経ちます。生きているのか、それとも……。心のどこかでずっと、諦めきれない自分がいるんです。でも、このままでは、残された娘にも大きな負担をかけてしまうと思って ……」

私の事務所の応接室で、小さな体をさらに縮めるようにして座っていたのは、杉並区にお住まいの谷川春江さん(84歳)でした。

春江さんは、数ヶ月前に最愛のご主人を亡くされたばかりでした。葬儀を終え、ようやく気持ちの整理がつき始めた頃、遺産である自宅不動産と預貯金の相続手続きを進めようとした段階で、大きな、あまりにも高い壁にぶち当たってしまったのです。

法律が定めるご主人の相続人は、配偶者である春江さん、長女の美穂さん、そして長男の健太さんの計三名でした。

しかし、その長男・健太さんは、二十年以上前から忽然と姿を消し、現在に至るまで完全に音信不通の「行方不明」状態にあったのです。

「健太が失踪した当時、あの子は仕事や人間関係で、精神的にかなり追い詰められている様子でした。ある日突然、書き置き一つ残さずにいなくなってしまって……。主人が生きている間も、警察に捜索届を出して、知人や勤め先、親族など、思い当たるところはすべて二人で歩いて回りました。でも、誰も健太の行方を知りませんでした。手がかりすら、何一つ掴めないまま、二十年が過ぎてしまったんです 」

春江さんは、遠い記憶をたどるように静かに語られました。警察からは年に一度、状況確認の電話がかかってくるものの、進展はありません。谷川家にとって、長男に関する時計の針は、二十年前のあの日に止まったままだったのです。

通常であれば、相続人全員で「遺産分割協議」を行い、実印を捺し合う必要があります。しかし、相続人の一人が行方不明では、話し合いを行うことすらできません。

さらに、事態を深刻にさせていたのは、春江さんが一人で暮らしている杉並区の自宅不動産が、都市計画による「道路建設の収用対象」にかかっていたことでした。

近いうちに自宅を国や自治体に明け渡し、立ち退きの補償金を受け取って新たな住まいへ移らなければならない。そのためには、どうしてもご主人の名義から春江さんへの相続登記(名義変更)を完了させる必要があったのです。

「手続きができないと、立ち退きも、これからの住み替えも進められません。私が生きているうちに、この問題を片付けておかないと、すべて娘の美穂に重荷がいってしまいます。藤川先生、どうか私たちに力を貸してください 」 春江さんの切実な眼差しを受け止め、私は「分かりました。谷川さんのこれからの人生のために、最適な道を一緒に探しましょう」と、深く頷きました。

法律が提示する二つの選択肢

事務所に戻った私は、行方不明の長男がいる状態での相続手続きについて、具体的な実務の検討に入りました。法律上、このようなケースで取れる解決策は、大きく分けて二つあります。

①「不在者財産管理人」を選任する方法
家庭裁判所に申し立てて、行方不明の健太さんの代わりに財産を管理する「管理人(弁護士などの専門家が選ばれることが多い)」を決めてもらう手続きです。この管理人が春江さんたちと遺産分割協議を行うことで、相続手続きを進めることが可能になります。 ただし、管理人はあくまで「行方不明者の財産を守る立場」であるため、原則として健太さんの法定相続分(4分の1)にあたる現金を、健太さんが見つかるまでずっとプールし続けなければなりません。また、管理人が選任されている間は、継続的な予納金や報酬が発生し続けるという経済的負担もあります。

②「失踪宣告(しっそうせんこく)」を申し立てる方法
従来の生死が7年以上明らかでないときに、家庭裁判所の審判によって「法律上、死亡したものとみなす」制度です。これが認められると、健太さんは失踪期間が満了した時点(今回の場合は失踪から7年が経過した時点)で亡くなったものと扱われ、戸籍にもその旨が記載されます。 これにより、健太さんは「ご主人の相続の時点ですでに死亡していた」ことになるため、相続人は春江さんと長女の美穂さんの二人のみとなり、二人だけで有効な遺産分割協議を行うことができるようになります。

私は再び春江さんと長女の美穂さんにお会いし、この二つの制度のメリットとデメリット、そしてそれらが家族にもたらす心理的な影響について、極めて慎重に、かつ丁寧に説明を行いました。

「春江さん、失踪宣告が確定すると、健太さんの戸籍には『死亡』という二文字が刻まれることになります。お母様にとって、これほど辛い決断はないと思います。しかし、不在者財産管理人を選んだ場合、プールしたお金の管理や手続きの負担が、将来的に美穂さんへと引き継がれていくことになります 」

私の言葉を聞き、春江さんは長い間、目を閉じて沈黙されていました。 二十年間、心のどこかで「いつかふらっと帰ってくるのではないか」という微かな希望を捨てきれずに生きてきたお母様です。我が子を法律によって「亡くなったもの」とする手続きに、葛藤がないはずがありません。

しかし、春江さんは、隣に座る長女の美穂さんの手をそっと握りしめ、目を開くと、決然とした口調でこうおっしゃいました。

「藤川先生。戸籍上、死亡とみなされるのは本当に身を切られるほど辛いです。でも、このまま時間を止めたままでは、何も変わりません。何より、私が生きているうちに『けじめ』をつけておかないと、娘のこれからの人生に迷惑をかけてしまいます。前に進むために、私は健太の『失踪宣告』を選びます 」 それは、悲しみを胸に抱きながらも、残された家族の未来を守ろうとする、母親としてのあまりにも重く、苦渋の決断でした。

後編に続く

第16回 二十年目の「けじめ」――行方不明の長男に下した失踪宣告と、母の決断(前編)

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