遺産相続物語

STORY

[想定外の相続人]

第17回 国境を越えた遺産分割――戸籍に刻まれた見知らぬフィリピン人相続人との出会い(前編)

  • 投稿:2026年06月13日
第17回 国境を越えた遺産分割――戸籍に刻まれた見知らぬフィリピン人相続人との出会い(前編)

第一章:開かれた戸籍と、予想だにしない「七名の壁」

「藤川先生、母の残した口座の手続きをしようと思って戸籍を集めたんですが……。見たことも、聞いたこともない名前が載っているんです。これ、一体どういうことなんでしょうか」

私の事務所を訪れた前田俊介さん(66歳 練馬区在住)は、手元の分厚い戸籍謄本を見つめながら、困惑しきった表情でため息をつかれました。

前田さんのお母様が、88歳で大往生を遂げられたのは数ヶ月前のこと。遺産は複数の銀行に預けられた、合計700万円ほどの預貯金でした。前田さんとしては、自分が長男であり、実家の片付けや葬儀もすべて一人で取り仕切ってきたため、名義変更の手続きも簡単に終わるだろうと考えていたのです。

俊介さんには、かつて双子の弟たちがいました。二男の和雄さんと、三男の雄二さんです。しかし、二人ともすでに数年前に若くしてこの世を去っていました。

法律上、子供が親より先に亡くなっている場合、その子供(つまり被相続人から見た孫)が代わりに相続権を引き継ぎます。これを「代襲相続(だいしゅうそうぞく)」と呼びます。

前田さんも、その仕組み自体は知っていました。三男の雄二さんには二人の娘がおり、彼女たちとは今も都内で良好な付き合いがあります。問題は、もう一人の弟である二男・和雄さんの戸籍でした。

「和雄は生前、かなり破天荒な人生を送っていましてね。二度の離婚を経験していることは知っていました。最初の妻との間に二人の子供がいて、彼らとも連絡は取れたんです。ところが……二度目の妻というのが、フィリピン国籍の女性だったんです。戸籍をよく見ると、その女性との間にも、一男一女の子供が生まれていました」

前田さんが指差した戸籍の末尾には、カタカナで書かれた外国籍の元妻の名前と、その子供であるマリアさん、カルロスさんの名前が、日本の戸籍のなかにポツリと刻まれていました。

お母様から見た孫にあたる相続人は、合計で6名。前田さんを合わせると、この相続に関わる当事者は総勢7名にのぼっていたのです。

「都内にいる甥や姪たちは、手続きに協力すると言ってくれています。でも、このフィリピンにいるという二人の承諾がなければ、銀行は一円もお金を下ろしてくれません。顔も見たことがない、どこにいるかもわからない外国の相手と、どうやって話し合いをすればいいのか……」

前田さんは深く肩を落とされました。前田さんの手元にある情報は、戸籍に記載された元妻と二人の子供たちの名前、そして生年月日だけ。現地の住所すら一切わからないという、文字通りのゼロスタートだったのです。

第二章:領事館への一縷の望みと、「最悪のシナリオ」への備え

「前田さん、まずはこの戸籍の記載だけを頼りに、在日フィリピン領事館へ親族の所在照会をかけてみましょう。何か手がかりが掴めるかもしれません」

私は前田さんを安心させるように語りかけましたが、実務のプロとしては同時に「最悪のシナリオ」も想定していました。

正直なところ、日本の公的機関ではない外国の大使館や領事館への照会で、民間の相続手続きのために個人の現住所がそう簡単に判明するとは考えていなかったのです。

もし、フィリピン領事館からの回答が『お答えできません』、あるいは『該当者なし』だった場合、手続きは完全に暗礁に乗り上げます。その場合、私は次のような「奥の手」を使う覚悟を決めていました。

それは、外国籍の相続人について、関係者のヒアリングや領事館照会など『やれるべき調査はすべて尽くしたが、どうしても住所が判明しなかった』という客観的事実を証明する報告書を作成し、金融機関には一切迷惑をかけないことを約束した念書をこちらで作成することでした。

行方不明のまま裁判所の手続き(不在者財産管理人など)を挟むと、数年単位の時間と多額の予納金がかかり、700万円の遺産に対して費用倒れになってしまいます。だからこそ、誠実に調査を尽くしたプロセスをまとめた報告書と念書を銀行に提示し、国内の相続人だけで解約に応じてもらうよう、泥臭く交渉する予定だったのです。

「判明すれば正面から交渉する。判明しなければ、調査の足跡を証明して銀行を説得する。どちらに転んでも解決できるよう、二つのルートで動きましょう」

そう前田さんに伝え、私たちは戸籍謄本の写しを添えて、在日フィリピン領事館へ正式に問い合わせを行いました。

すると数週間後、私たちの予想を遥かに裏切る、驚くべき回答が届いたのです。

フィリピン領事館のネットワークによって、マリアさんとカルロスさんの情報がまたたく間に特定され、現地の最新住所だけでなく、なんと現在使われている「電話番号」と「メールアドレス」までが、完璧な形で一時に判明したという通知でした。

「先生、本当に連絡先が分かったんですか!」 報告を受けた前田さんは、受話器の向こうで声を震わせました。

戸籍の文字の中にしか存在しなかった「見知らぬ二人の孫」が、明確な連絡先を持って、一気に現実の相続人として私たちの前に姿を現した瞬間でした。

中編に続く

第17回 国境を越えた遺産分割――戸籍に刻まれた見知らぬフィリピン人相続人との出会い(前編)

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