司法書士
藤川健司
司法書士事務所 リーガル・アソシエイツの代表司法書士。三鷹市、武蔵野市、調布市、杉並区、中野区を中心に相続専門の司法書士事務所として、相続全般のサービスを提供。業務歴30年以上。弁護士事務所での実務経験、起業経験を活かして、これまでに2000件以上の相続案件を手掛ける。
STORY
[想定外の相続人]
第一章:開かれた通帳と、心の奥の「わだかまり」
「藤川先生、父が亡くなった後の手続きをお願いしたいのですが……。実は、どうしても自分の中で気持ちの整理がつかない部分があるんです」
私の事務所を訪れた斎藤美香さん(52歳・東京都練馬区在住)は、応接室の椅子に腰を下ろすと、机の上に置いたお父様の遺品――数冊の預金通帳を見つめながら、複雑な表情でポツリとそう呟かれました。
美香さんのお父様である齋藤和夫さんが、86歳でこの世を去ったのは今から数ヶ月前のこと。残された財産は、複数の金融機関に預けられた合計600万円ほどの預貯金でした。
しかし、美香さんが深くため息をつく理由は、財産の額や手続きの複雑さではありませんでした。彼女の心を重く縛り付けていたのは、戸籍謄本にしっかりと記載されている、ある「一人の相続人」の存在だったのです。
和夫さんの前妻――つまり美香さんのお母様は、今から35年前に病気でこの世を去っていました。それから10年が経った頃、お父様はある女性と「再婚」をしました。
その相手は、フィリピン国籍の女性、クリスティンさん。驚くべきことに、クリスティンさんの年齢は、長女である美香さんとほぼ同年代だったのです。
「母が亡くなって寂しかったのは分かります。でも、まさか自分の娘と同じくらいの年の外国人の女性と再婚するなんて……。正直に言えば、当時は父に対して激しい嫌悪感と、裏切られたような悲しみを抱きました。周りの目が恥ずかしくて、親戚にも進んで話せるようなことではありませんでした」
美香さんは、当時の割り切れない想いを吐露するように、静かに首を振りました。
当時、お父様とクリスティンさんは籍を入れたものの、実家で同居することはありませんでした。クリスティンさんは実家の近くに住まいを借り、お父様が時折そこへ通うという、少し変わった夫婦生活を送っていたそうです。数年前からは、クリスティンさんは東京を離れ、遠く離れた福岡県に移住してしまっていたため、完全に疎遠な関係になっていました。
「悪い人ではないとは思うのですが、どうしても先入観というか、父の財産や遺族年金がお目当てだったんじゃないかって、疑ってしまう自分がいるんです」
第二章:携帯電話の向こうから聞こえた、穏やかな声
日本の法律では、配偶者の法定相続分は「2分の1」です。今回のケースでは、600万円の預貯金のうち、後妻であるクリスティンさんが300万円、実子である美香さんと妹の二女(50歳)がそれぞれ150万円ずつを受け取る権利を持っています。
どれだけ疎遠であっても、どれだけ感情的なわだかまりがあっても、クリスティンさんの同意と署名捺印がなければ、銀行の口座を解約することはできません。クリスティンさんの現在の住所は分かりませんでしたが、美香さんはクリスティンさんの携帯電話の番号だけは知っていました。
お父様が亡くなった際、美香さんはクリスティンさんの携帯電話へ連絡を試みていました。しかし、長年疎遠だったこともあり、電話に出たのは本人ではなくクリスティンさんの知人女性でした。美香さんはその知人を通じて、お父様が亡くなったという訃報を事前にクリスティンさんへと伝えてもらっていたのです。
「分かりました、美香さん。まずは私が、その携帯電話の番号へ連絡を取ってみます。どのような意向を持たれているのか、誠意を持ってお話を伺ってみましょう」
私はそう言って美香さんを安心させ、オフィスからクリスティンさんの携帯電話へとダイヤルしました。
呼び出し音が数回鳴った後、「もしもし……」と、少し戸惑ったような女性の声が響きました。30年以上日本で暮らしているという事前情報の通り、非常に流暢で、驚くほど穏やかな日本語でした。
私は、司法書士の藤川であること、そして美香さんから依頼を受けて相続手続きを進めていることを丁寧に伝えました。
突然の日本の専門家からの連絡です。「私の取り分はいくらですか?」と主張してきたりするのではないか――そんな私の予想は、彼女の静かな態度によって見事に裏切られました。
「藤川先生、わざわざお電話ありがとうございます。和夫さんが亡くなったことは、本当に悲しいです……。私は手続きに協力します。美香さんたちが困らないように、私がしなければならないことがあれば、何でも言ってください」
電話越しに伝わってくる彼女の人柄は、美香さんが抱いていた「財産目当ての若い後妻」という先入観とは、あまりにもかけ離れたものでした。しかし、相続は一生に一度の重要な法律手続きです。電話だけで終わらせるべきではない、と私は直感しました。
「クリスティンさん、快いご返答をありがとうございます。実は、外国籍の方の相続手続きには、少し特殊な書類が必要になることがあります。もしよろしければ、私が福岡までお伺いして、直接お会いしてご説明させていただけないでしょうか」
クリスティンさんは少し驚いたようでしたが、「わざわざ福岡まで来てくださるんですか? ありがとうございます。お待ちしています」と、やはり温かい口調で受け入れてくれました。
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